大相撲とは、プロの相撲であり、その運営は「財団法人日本相撲協会」がしています。
プロと認められた最高位の力士たちが、商業的に行う相撲興行や、その母体となる力士・関係者の集団のことです。
現在では、「財団法人日本相撲協会」が主催するプロの相撲興行のことを言います。
現在では、大相撲は、1年間で6場所行われ、1・3・5・7・9・11月の奇数月に、15日間にわたり、行われています。
「財団法人日本相撲協会」(ざいだんほうじんにほんすもうきょうかい)とは、大相撲を運営している財団法人のことを言います。
所在地は、東京都墨田区横網で、1927年より、現在の相撲協会となりました。
財団法人日本相撲協会は、大相撲の興行、競技としての相撲の指導および相撲の普及や相撲に関する伝統・文化などを保持する目的・役割を持ち、1925年に設立された財団法人です。
相撲興行に関しては、全国規模で開催している唯一の団体です。
その管轄は、文部科学省によって管轄されています。
大相撲の歴史は古く、江戸時代から始まったと言われ、その伝統は現在に至るまで重んじられています。
江戸時代の江戸(現在の東京)と大坂での相撲の組織が存在していたと言われており、現在の日本相撲協会の前身であったと言われています。
興行として相撲が始まったのは、江戸時代のはじめ頃(17世紀)であるとされています。
その当時は、相撲は、大相撲が寺社奉行の管轄となり、江戸時代では、興行は江戸市中の神社や寺院の境内などで行われていました。
また、大相撲は、京都や大坂に相撲の集団が存在し、当初は上人の財力や朝廷の権威のあった京都や大坂で、相撲は繁栄を見せていました。
相撲は、現在、番付制度になっていますが、興行においての力士の手腕を競い、その実力を定めた番付も、その当時から始まったとされています。
明治時代に入ると、江戸は東京に代わり、明治維新と文明開化に伴い、1871年、明治4年には、「裸体禁止令」が発令されました。
この発令により、東京で相撲をしていた力士は罰金や鞭打ち刑などの罰に処されることもあり、相撲は、世間から批判される対象となりました。
「相撲禁止論」説が高まりましたが、1884年、明治17年には、大相撲が社会的に公認されました。
このとき、東京相撲協会と大阪相撲協会が組織として形成されました。「横綱」という力士に与えられる最高級の番付ができたのは、この頃だそうです。
明治時代の終わり頃になると、東京では、相撲の隆盛に行われるようになり、東京が相撲の中心という意識が広がってきました。
また、大相撲の力士が渡米するなど、本格的に、海外へ相撲が紹介されました。
その頃、両国国技館が落成され、相撲が国技とされるようになりました。
土俵入りには、東西制度が生まれ、技を競い合い、優勝旗が授与されるようになりました。
幕内のすべての力士が出場するようになり、興行日数は、1923年、大正12年から11日間という体制になりました。
1917年、大正6年には国技館が火災で焼失するという事故が発生しました。その間、大相撲は、靖国神社境内で本場所が行われました。
興行としての相撲は、定着してきましたが、大阪の相撲では、1922年、大正11年に「竜神事件」が発生しました。
これにより、力士や大相撲の関係者が廃業し、かつては盛んだった大阪相撲の勢いが衰えてきました。
東京相撲では、1923年、大正12年、に「三河島事件」が発生しました。
力士の待遇の改善を求めるため、ストライキが発生し、実力のある力士が廃業しました。
1923年、対象12年9月には、関東大震災が発生しました。
その翌年の1924年、大正13年の1月での春場所は、震災の影響で、名古屋で開催されました。
1926年、大正15年の1月場所から優勝者に賜杯が授与されることになり、これによって個人優勝制度が確立されました。
1927年、昭和2年には、東京相撲協会と大阪相撲協会が解散しました。
その後、大日本相撲協会が発足しました。
この時期には、勝負に関する改定が行われました。
また、1928年、昭和3年からは、大相撲は、ラジオ中継での放送が開始されました。
個人優勝制度が確立され、勝負を争う競技としての要素がよりいっそう強くなりました。
1932年、昭和7年には、「春秋園事件」が発生し、多くの実力ある力士たちが脱退しました。
これにより、大相撲の制度も変化が生じました。
1933年から関西場所が廃止されると、興行日数は1937年、昭和12年の5月場所より13日間と変わり、さらには、1939年、昭和14年の5月場所から15日間と変わりました。
その後、大平洋戦争の影響で、大相撲の興行は困難になり、興行の開催時期がずれたり、興行日数が削減されることもありました。
戦争に召集された力士や、戦死・戦災死して力士もおり、また、捕虜として抑留された力士などもいました。
1945年3月の東京大空襲では、両国国技館や相撲部屋を焼失しました。
戦争も終わり、1945年、昭和20年の9月には、焼失した両国国技館が若干修復されました。
この時期には、優勝決定戦や三賞制度の制定、さまざまな制度が変更されました。
全国的にテレビが普及しはじめると、NHKの相撲のテレビ中継が始まりました。
その後、ソ連、中国、メキシコなどで海外公演が行われ、大相撲は、国際的にもよく知られるスポーツとなりました。
1985年、昭和60年には、現在の両国国技館が完成しました。
1990年代より、若貴兄弟(貴乃花光司・若乃花勝)の活躍により、全国的に相撲ブームがまき起こりました。
二人の名前から若貴ブームとも呼ばれるようになりました。
横綱だった初代貴乃花が父で、伯父である若乃花勝伯が名横綱ということもあり、新たな大相撲ファンを獲得するきっかけにもなりました。
今の時代で言えば、韓流ブームのような勢いがあり、貴乃花のきりっとした精かんな風貌と、若乃花の親しみやすい雰囲気の童顔は、若い女性ファンも獲得しました。
観客席には、若い女性層も増え、年代層の幅が一段と広がりました。
貴乃花は、優勝22回を記録しました。
初代貴乃花にも負けない、それ以上の活躍ぶりでした。
若貴ブーム以前は、横綱千代の富士と北の海の活躍が目立ちました。
千代の富士の鋭い目つきで相手を制すときの迫力と、北の海の無表情で、一件無愛想にも見えるけれど、冷静沈着に技を決める姿は、とても印象的でした。
若乃花と貴乃花が引退したあと、ここ近年では、外国人力士の活躍が目立つようになりました。
大相撲は、世界各国で愛されているスポーツです。
海外からも、プロの力士を目指して、日本にきて修業を積んで、プロの力士も多くなりました。
昭和の時代では、外国人力士というと、ハワイ出身の力士が多かったのですが、ここ近年では、モンゴルやブルガリア出身の力士が増えました。
ここ近年の大相撲の最大の特徴と言えば、なんといっても外国出身力士の活躍でしょう。
横綱千代の富士や、若貴ブームのようなかつての勢いまではありませんが、ハワイ出身の小錦や曙、武蔵丸が引退し、貴乃花が引退した頃から、飛ぶ鳥を落とすような勢いで横綱へ駆け上った朝青龍の独走時代へと突入しました。
2005年、平成17年には、朝青龍は、年間6場所で、すべてを制覇しました。
この年は、外国人力士が初制覇したと同時に、1年間で、一度も賜杯が日本人力士に渡らないという結果にもなりました。
また、朝青龍をはじめ、モンゴル出身の力士も増えました。
その他、ブルガリア出身の琴欧洲が大関昇進を果たしました。
エストニア出身の把瑠都(ばると)が十両で全勝優勝するなど、外国人力士の活躍がとても目立っています。
日本人力士も、またかつての勢いを見せて頑張ってほしいところです。
現在の大相撲では、個人の技を競い合い、それによって、勝負が決まり、勝敗が分かれることによって、成績などが考慮され、大きく2つ、小さくは6つのクラスに分けられます。
このクラス内で対戦をすることを基本としています。
クラス内での地位のことを「番付」と呼ばれる順位表で表されています。
上位リーグでは、幕内と十両、十枚目とから成立っています。
これは、いわゆる「関取」と呼ばれるクラスの力士で構成されています。
その中でも、最上位リーグに位置しているのが「幕内」です。
番付の上位から並べると、「横綱(よこづな)」・「大関(おおぜき)」・「関脇(せきわけ)」・「小結(こむすび)」・「前頭(まえがしら)」の順位となっています。三役とは、「小結」以上のことを言います。
「前頭」は、一般的に「平幕」と呼ばれることも多いようです。
「前頭」以下の番付としては、「十両(じゅうりょう)」、「幕下(まくした)」、「三段目(三段目)、「序二段(じょにだん)」、「序ノ口(じょのくち)」などがあります。
番付では最高級とされる「横綱」ですが、最近「横綱」に昇格した力士は、白鵬です。
朝青龍と同じく、モンゴル出身の力士で、モンゴル出身者による横綱は、朝青龍次いで2人目となります。
外国出身力士では、曙・武蔵丸・朝青龍に続く4人目の横綱となります。
また、幕内に入ることを入幕、または新入幕と言い、一度出てまた幕内に復帰することを再入幕と言います。
本場所の取組は、通常、日曜日から始まり、翌々週の日曜日までの1場所・15日の体制にて行われています。
取組が始まる最初の日を「初日(しょにち)」と言い、8日目を「中日(なかび)」と言います。最終日を「千秋楽(せんしゅうらく)」と言います。
「千秋楽」という言葉は、数日間の複数日に渡り、同じ演目を行う興行などにおいて、「最終日」を指す用語で、または、「楽日」(らくび)という言い方をすることもあります。
大相撲に限らず、歌舞伎や演劇などの最終日にも、「千秋楽」という表現が使われています。
幕内の取組は、幕内力士土俵入りから始まります。横綱土俵入りの後、16時過ぎから、取組が行われ、千秋楽以外の日では、ほぼ18時前後には、全取組が終了するようになっており、NHK総合テレビでの大相撲中継の放送時間に合うようにしています。
1日の最後の取組は、「結び」または、「結びの一番」と呼ばれています。
また、全取組が終了した後には、恒例として弓取式が行われます。弓取式が終わった時点で、その日の日程はすべて終了します。
このことを「打出し」と言います。また、千秋楽の日だけ、残り3番になると、取組を控えた3組(6人)の力士が土俵に上がって、揃い踏みを行います。
千秋楽のムードがいちだんと高まり、これを「これより三役」と言います。
現在、力士としては、トップクラスの番付である「横綱」の力士を紹介します。
「朝青龍 (あさしょうりゅう)」力士は、第68代の横綱です。日本での名前は、朝青龍明徳(あさしょうりゅうあきのり)と言います。
モンゴルでの本名は、ドルゴルスレン・ダグワドルジです。愛称は、「ドルジ」です。モンゴル国のウランバートル出身です。
1980年9月生まれで、大相撲を学ぶため、高校時代には、明徳義塾高校に相撲留学で入学しました。
その後、同高校を中退した後、現在の高砂部屋に入門して、修業しました。
朝青龍の初土俵は、平成11年初場所で、新入幕は、平成13年初場所になります。
その後、めきめきと実力を身につけた朝青龍力士は、平成15年の大阪場所の後、横綱に昇進しました。
その後の活躍については、語るまでもないといったところでしょうか。
これから先も、期待したい力士です。
朝青龍は、幕内優勝数は、15回、また、平成13年秋場所と平成14年春場所などにおいて、殊勲賞に輝きました。
平成16年の五月場所では、6日目で惜しくも北勝力に敗れました。
連勝記録は35回で止まりましたが、その後を盛り返すかのように、名古屋場所では、史上9人目となる4連覇を達成しました。
さらに、平成17年の名古屋場所では、史上7人目となる5連覇を達成しました。
平成17年には、史上初の7連覇・全場所制覇を達成しました。
財団法人日本相撲協会では、5月30日に大関白鵬の横綱昇進を決定しました。
これにより、第69代横綱白鵬が誕生しました。
白鵬は、宮城野部屋に所属しており、 朝青龍と同じくモンゴル国出身力士です。
同国の出身力士としては、2人目の横綱となります。
日本での名前は、白鵬 翔(はくほうしょう)と言い、本名 は、ムンフバト・ダヴァジャルガルと言います。
昭和60年生まれで、出身地は、モンゴル国のウランバートルで、 朝青龍と同じ地域出身です。
今までに38場所を経験しました。幕内優勝は、3回です。
おもに「右四つ・寄り」という技を得意としており、取組では、見事にこの技を決めています。
初土俵は、平成13年三月場所、平成16年に十両となり、その後、平成18年五月場所において、大関に昇進した後、現在に至ります。
朝青龍に続くモンゴル人の活躍には、目を見張るものがあります。
白鵬が横綱に昇格したことで、新横綱は、平成15年1月場所後の朝青龍以来になり、史上69人目で、昭和以降では、38人目となります。
平成以降では、7人目になります。
なお、新横綱が誕生するのは26場所ぶりのことです。
今後、ますますの活躍が期待されることでしょう。